江戸川外れの松やレンガ以前のボルボ

東京都江戸川区の東の外れともなると対岸は千葉県となり、その雰囲気は都心中央部とは様相を異にする。街区がごちゃごちゃとしていて、道も自動車用には作られていないような感じがする。非常に狭い。また、当方の住まいは一応は高級住宅街と呼ばれているところである。別にマウントをとるわけではないけれども。

こうした要因から、私には非常に鄙びた雰囲気に感じられてくるのだが、たぶんに、こういう感想というものは私の地理的知識から基づく、作られた景色に過ぎないのであろう。実際に私は小学校高学年から高校卒業まで、お隣の砂町に住んでいたので、この地域に親しみがないわけではない。そして、高校時代辺りからこの辺りはさほど変わっていないという印象を強く受ける。リアリティと記憶が著しく混在している。

 

四方に大きく枝を広げた松がある。影向の松と云われ、小岩の川沿いのお寺に観光地化もせずに残されている。歴史的由緒はなかなかのものだし、地元の名士である元横綱栃錦が当地の出身で、彼とのゆかりも深い。

 

閉門は五時である。週に一度はインプレッサを動かすことにしているので、都市民の歓びだか悲しみだかはわからぬが、首都高で都心部や23区郊外の景色を堪能。

そんなわけで、四時過ぎに到着した。いつもは子供連れの若奥さんくらいしか見かけず、この日のそのような具合ではあったが、おそらく土日に菊祭りというものを開催しているらしく、境内はやや華やいでいる気がした。

 

五時近くに報恩軍配物語和讃の写しの紙が欲しくなり、作務衣のようなものを着ている女性の方としばしお話をさせていただいた。この和讃というのは、とある行司に関する想いを彼の弟子たちにより和讃として述べられたものである。

とある行司のことである。と努力をして立派な三役力士の行司になるべく、精進を重ねていたものの、病に倒れてしまう。三役力士の行司の軍配は塗りの立派なものでなくてはならない。彼はそれを使わないで、病に倒れてしまう。ここは粋な計らいというべきか白木の軍配のままで、行司のお役目を果たせたというのだから、まあ、幸福だったといってよい。昭和48年のことであろう。比較的最近のことではある。

 

そもそも、なんでこんな和讃が欲しくなったのかがわからないけれども、和讃なぞ読んだこともないので、まあ、いい機会ではあった。

眼前にボルボP1800ESが停まっている。3ドアワゴンであり、レンガボルボ以前のボルボである。その一台以外はSUVに囲まれているが興味はない。LとRを両押ししてミラーが格納されることに異国情緒を感じるわけではない。

 

私は事前計画を立てずに行くことが多く、先の影向の松もその一つであるが、

ここはコロナ禍が話題になる直前のオートサロンに行くときに、なんとなく立ち寄った喫茶店であった。席の眼前にこんな車両がでんと置かれているので、びっくりした。オートサロンではGlenと対面し、星野さんからサインを頂いたりしたのだけれど、印象としてはこちらの喫茶店の方が強い。千葉みなとのタリーズです。はい、わざわざ、江戸川を越えて自宅と真逆の千葉市にまで行く私(と家内)。

 

京都四条ではないアピットでBYDのクルマをみて、久し振りにスシローに寄って、ついでに芝浦にも久し振りに寄って、さらについでに給油もして帰宅(笑)

スシローもだいぶ仕組みが変わってきたんだな。

 

左首を曲げたときの痛みはだいぶ取れたけれども、まだベンチプレスはやめたほうがいい気がする。数字を追うことはやめているけれども、筋肉量が落ちるのが怖い。人間は何かを得ると何かを失うという背反する気持ちを同時に抱く。だから、釈迦はすべてを相対化して受け止めて、中庸の境地になりなさいと述べたのであろう。曰く至言である。